筑前町へようこそ、おいでやす、夜須には、日本のはじまりが、たくさん秘められて、おります、ではごらんくださいませ
 
 
 
 
 
 
 
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夜須の地名の起こり  大木 前田橋(豊穣橋) 夜須 松延 大善松 四の隈(篠隈) 天皇御領地(奏言郡大領地)は文徳天皇の時、管公の祖、の前田臣市成という人の頃もあった。神功皇后卑弥呼も、三笠を巡見していて、夜須は歴史がしのばれる地であった。平安末期にも、大宰府征西府庁は、後白河天皇から任官していた、藤原氏、と、後白河法皇の猶子として高倉天皇 時子の妹・平滋子(建春門院)が後白河の皇子・憲仁親王(後の高倉天皇)を出産、後白河と清盛が共同して日宋貿易に取り組んでいた、こののち、高倉上皇が平安京を放棄しない、後白河は平氏と行動を共にせず、京に残って孫の後鳥羽天皇を即位させた。筑前大宰府安楽寺天満宮は、天皇御領地として、昔より夜須があてられていたという。

本尊釈迦・多宝・普賢・文殊、七条女院(高倉後宮・藤原殖子)御願、建久元年(1190)建立
 天満宮境内絵図4(部分図):西御塔(多宝塔)南にある。「古図」には三重塔とある。

◇七条女院:保元2年(1157) - 安貞2年(1228)、高倉天皇の典侍。坊門殖子。
守貞親王(後高倉院)、後鳥羽天皇の生母。
 父は従三位藤原(坊門)信隆。建久元年(1190)従三位・准三后、その後立后を経ず女院となり、七条院と呼ばれる。
 元久2年(1205年)出家。所領は七条院領と云われる

                                         。  

                                           「古図」には三重塔  所領は七条院領と云われる

 ※出典:大宰府神社文書・大宰府天満宮 ..... 市北方宝満川流域から一部夜須町にかけての地域 ・領家古くは「文徳天皇実録」にも記載されている。夜須町(天皇御領地奏言郡大領とのせる)

安楽寺天満宮新三重塔 .... 大宰府との、道も、開かれている。 ..... 夜須郡は奏言郡といい、、天皇御領地であったと記録。

 

 

 


 

 

日本国の創始者と夜須 古代の夜須、は、示す通り、紀元前百年前に、中国からやってきた、福建省、浙江省、武夷越王丑によって、会稽安邑を遠祖としていた、呉(くれ)越

筑前のみどころ

 

 

 

あさくらの地名由来
 
夜須の地名のゆらい
 
あさくらの有名人
 
 

  
 
西日本新聞掲載、謎呼ぶラッパ形土器の話題
日本人の知らない日本の歴史が児島宮により、次々と、あらわされています、ご期待ください
 
 
  ありがとうございました、では、こんどは、たくさんの方に、も、ご紹介して、くださいませ、又のお越しを、お待ちしています 
 

 


 

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